東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

幼少時代

夏目漱石(本名、夏目金之助)は、慶応3年(1867)1月5日(陰暦)、父・夏目小兵衛直克と母・夏目ちゑ(千枝)の5男3女の末子として、江戸牛込馬場下横町(現在、新宿区喜久井町1番地)に生まれた。
 「金之助」と名付けられたのは、漱石の誕生日が「庚申の日に当り、庚申の日に生れた子供は大泥棒になる、然しそれをよける為には名前に「金」の字をつけるといいという迷信があった」(小宮豊隆『夏目漱石』)ためだった。

漱石は生後間もなく里子へ出された。漱石は当時のことについて次のように回想している。

私は両親の晩年になつて出来た所謂末ツ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云つたとかいふ話が、今でも折々は繰り返されてゐる。 単に其為ばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里に遣つてしまつた。其里といふのは、無論私の記憶に残つてゐる筈がないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしてゐた貧しい夫婦ものであつたらしい。
(「硝子戸の中」)

漱石は里からいったんは生家に引き取られたが、すぐに四谷大宗寺門前名主塩原昌之助・やす夫妻の養子となった。

私は何時頃其里から取り戻されたか知らない。然しぢき又ある家へ養子に遣られた。それは慥私の四つの歳であつたやうに思ふ。私は物心のつく八九歳迄其所で成長したが、やがて養家に妙なごた/\が起つたため、再び実家へ戻る様な仕儀となつた。
(「硝子戸の中」)

自伝的な要素の強い『道草』には、漱石自身をモデルとしていると考えられる主人公・健三と、養父母をモデルとしていると思われる島田夫妻との関係について、次のような場面が描かれている。

彼等が長火鉢の前で差向ひに坐り合ふ夜寒の宵などには、健三によく斯んな質問を掛けた。
「御前の御父ツさんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼を指した。
「ぢや御前の御母さんは」
 健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
 是で自分達の要求を一応満足させると、今度は同じやうな事を外の形で訊いた。
「ぢや御前の本当の御父さんと御母さんは」
 健三は厭々ながら同じ答へを繰り返すより外に仕方がなかつた。
(中略)
 或時はこんな光景が殆ど毎日のやうに三人の間に起つた。或時は単に是丈の問答では済まなかつた。ことに御常は執濃かつた。
「御前は何処で生れたの」
(『道草』)

明治8年(1875)、養父母の離縁が成立し、漱石は塩原家に在籍したまま夏目家に戻った。しかし漱石が正式に夏目家に復籍するのは、明治21年(1888)になってからのことだった。

漱石は、文学への志望は、15、6歳から始まったと記している。

私も十五六歳の頃は、漢書や小説などを読んで文学といふものを面白く感じ、自分もやつて見ようといふ気がしたので、それを亡くなつた兄に話して見ると、兄は文学は職業にやならない、アツコンプリツシメントに過ぎないものだと云つて寧ろ私を叱つた。然しよく考へて見るに、自分は何か趣味を持つた職業に従事して見たい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ。
(「談話(時機が来てゐたんだ)」)

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