東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

【学生時代】

漱石 幾何学答案 97点

 漱石は、大学予備門に入学した当初、「勉強を軽蔑するのが自己の天職の如く心得」(「満韓ところ/ヾ」)、成績は「試験のあるたんびに下落して」(同)、終に落第も経験している。しかし落第をきっかけにして熱心に勉強したところ、「前には出来なかつた数学なども非常に出来る様になつて、一日親睦会 の席上で誰は何科へ行くだらう誰は何科へ行くだらうと投票をした時に、僕は理科ヘ行く者として投票された位であつた」(「落第」)という。(漱石文庫)

正岡常規(子規)筆関甲子郎宛書簡

 第一高等中学校時代に、子規が同級の関甲子郎にあてた書簡。「大試験前代数も少々入用故乍憚其節御持参の程奉願上候」などとあり、子規が試験勉強のために関に代数の参考書かノートの借用を依頼した書簡である。
 関は、子規が明治19年(1886)1月に友人たちと作った「七変人評論」の中で、人に対して「高論放語 傍若無人」と評されている人物。しかし、子規 の『筆まかせ』第一編(明治22年)では、「七変人の離散」として、「関氏学校をやめて、どこかに隠れ」と記されている。(漱石文庫)

漱石 英作文 My Friends in the School

 3つの部分から成る英作文。第2部、第3部の末尾には、それぞれ1889年5月24日、同年6月15日の日付が付されている。第1部では「「アヒル」と いうあだ名のついた頑健で屈強」の友人、第2部では「顔はまるで、子どものように純朴で、心は哲学者のように成熟してい」(『漱石全集』第26巻)る友人について述べられている。第3部では、夢にカーライルが現れ、漱石に「ぼくを真似すること」は危険だと忠告する。漱石は「偉人の作品を読み、偉人の卓見に 同感し、偉人の才能を畏敬する者は、偉人の友なのではあるまいか。ならばカーライルこそわが友、カーライルこそわがヒーローだ」(同)と記している。漱石 は英国留学中にカーライル博物館を訪れ、後に短編「カーライル博物館」を書いた。(漱石文庫)

子規 『七草集』

 子規による詩華集である。明治21年(1888)、子規は「素志を果さんと閑静なる地を墨江に卜し」(『筆まかせ』)向島で一夏を過ごし、同地で『七草集』の大部分を執筆した。『七草集』は秋の七草にちなんだ七つの章からなり、漢文、漢詩、和歌、俳句、謡曲、擬古文など、さまざまな形式で書かれている。 子規はこれを友人たちに回覧し、批評を求めた。このとき漱石は、漢文による批評の末尾に、「明治己丑五月念五日 辱知 漱石妄批」と記し、はじめて「漱石」の号を用いた。漱石は、子規宛ての書簡で、「『七草集』にはさすがの某も実名を曝すのは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に合わせ漱石となんしたり顔に認め侍り、後にて考ふれば漱石とは書かで 石と書きしやうに覚へ候」(明治22年5月27日付)と記している。(漱石文庫)

漱石 『木屑録』

 漱石による漢詩紀行文である。明治22年(1889)8月、知人たちとともに房総旅行に出かけ、その時の見聞をまとめたものである。明治22年9月15日の子規に宛てた書簡には、「帰京後は余り徒然のあまり一篇の紀行様な妙な書を製造仕候。貴兄の斧正を乞はんと楽み居候」とある。漱石の『木屑録』は、子規の『七艸集』に触発されて書かれたものであり、何よりも「正岡子規に見せる事を目的として書かれ」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)たものであった。
 『木屑録』を子規に見せたところ、「頼みもしないのに跋を書いてよこし」(「正岡子規」)、「如吾兄者千萬年一人焉耳」と絶賛した。このように「漱石」は、子規との交流の中から誕生した。

ディクソン教授の英詩に関する講義 文科大学英文科1年


ディクソン著『英語熟語集』 漱石による多数の書き込みがある。
 漱石は、ディクソン教授から英語・英文学を学んだ。講演「私の個人主義」の中で漱石は、ディクソンについて、「其頃はヂクソンといふ人が教師でした。私は其先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、発音が間違つてゐると怒られたりしました。試験にはウォーヅウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスピヤのフオリオは幾通りあるかとか、或はスコツトの書いた作物を年代順に並べて見ろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでせう、果たしてこれが英文学か何うだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とは何ういうものだか、是では到底解る筈がありません」と批判的に言及している。(漱石文庫)

漱石 英図書リスト(購入予定図書リスト)

 「第五高等学校試験問題用紙」に記された購入予定図書リスト。
 "Bell", "Macmillan", "Clarendon"など出版社別に、75点の図書の、著者、タイトル、価格が記されており、その多くが「漱石文庫」に所蔵されている。(漱石文庫)

正岡子規『獺祭書屋俳話』 日本新聞社 明治28年(1895)

 子規から漱石への献呈本。子規は、自分の部屋が本や反故などで埋まっているのを、獺が捕った魚を巣に並べておくのに見たてて、「獺祭書屋」と称した。献辞の「愚陀仏庵」とは、松山で漱石と子規がともに過ごした時期、漱石が用いた「愚陀仏」(「愚陀」)の号にちなんで居宅に名付けたもの。獺祭書屋俳話は、子規が明治25年6月から新聞「日本」に連載した俳論をまとめたものであり、子規による俳句革新の暁鐘となった。(漱石文庫)

子規点漱石句稿 明治29年(1896)10月 明治30年(1897)2月

 漱石は生涯におよそ2500句の俳句を詠んだ。松山・熊本時代に最も多くの句を作り、子規に句稿を送り添削を求めた。俳句を送ることで病中の子規を慰める目的もあったのであろう。「人に死し鶴に生れて冴え返る」、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」、「菫程な小さき人に生れたし」などの句からは、漱石の理想 や人生観を伺うことができる。(漱石文庫)

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